ジフテリアって何?diphtheriaの歴史をまとめてみた

ジフテリアは病原菌の名前ですね。このジフテリアという単語は古いギリシャ語で「革」や「皮」という意味。
なんで「皮」?って感じなのですが、とりあえず記録では1826年にフランス人のピエール・ブルトノーという医師がそう名付けたとあります。
でも実際にはこの疫病の症状は1600年代にはすでに存在していて、一番古い記録だと1613年にスペインで感染病として流行していたようです。
1600年代の正確な死者などは記録はありませんが、スペインでは「絞殺の年」として知られているよう。
※絞殺の年という名前がつけられたのは、患者が呼吸できずに窒息死してしまうことが多いから。ジフテリアは膜で覆われたような菌の膨らみが大きくなり、呼吸器官を塞いでしまうというものでした。この膜から「皮」という意味のジフテリアを名称にしたわけです。
別の記録では1735年にアメリカのニューイングランドでの流行したとの記述もあります。
またイギリスでの同じ症状の記録があり、当時はフランスから広まったとしてフランスの地方の名前から「ブローニュ咽頭炎」などと呼ばれていました。
この時代に治療方法はなくジフテリアは感染を広げます。
スポンサーリンク病原菌は人を差別しない
1878年にはイギリスのビクトリア女王の娘アリス王女とその家族がジフテリアに感染して、アリス王女と五女のマリーが亡くなってしまいます。アリス王女は4歳でこの世を去ってしまいますが、感染したのは母親からのキスからだったのではと言われています。
この出来事からイギリスではジフテリアは富豪や貧乏、性別や年齢など差別することなく感染すると言われました。当たり前の話なのですが階級制度のあるイギリスならではの報道だなぁと思いました。。
Source Wikipedia
1883年になってドイツ人の微生物学者エドウィン・クレーブスがジフテリアの原因となる細菌を特定して、クレーブス-ジフテリア菌と名付けました。
ネットにある細菌の参考イメージはほとんどが円筒状の形をしているのですが、ジフテリアの細菌はドランプのクラブ(三つ葉)の形をしているとのことです。
エドウィン・クレーブスの発見から1年後の1884年に同じドイツ人の微生物学者フリードリヒ・レフラーはジフテリア菌の培養に成功、ここからジフテリア菌抗体への研究が急速に進められます。
1890年に入り北里柴三郎とドイツ人のエミール・フォン・ベーリングは熱処理したジフテリア毒素でモルモットやヤギ、馬といった動物を免疫させて、そしてその免疫された動物の血清から作られた「抗毒素」が免疫されていない動物の感染を治癒できることを示しました。
一年後研究パートナーのベーリングが、1891年にこの抗毒素をヒトの治験に使用しましたが、残念ながら成功には至らなかったとのこと。しかし、さらに研究は進み3年後の1894年、ついに馬の抗毒素を元に作った免疫体の人間への治療に成功の兆しが見え、この抗毒素の産生が開始されたのです。
アメリカでは1895年、フィラデルフィアのH. K. Mulford Companyによりジフテリア抗毒素の製造と試験を開始、そして2年後の1897年、ドイツ人の細菌学者ポール・エールリヒがジフテリア抗毒素の標準化された測定単位を開発。
これはどのくらいの抗毒素が必要かという基準を定めたということですね。抗体が少なくてもダメだし、多ければ副作用で体が攻撃されてしまうからということですね。
標準化されるというのは生物学的製品では初めてのことで、血清とワクチンに関する開発作業に重要な役割を果たしたと言われています。
1900年代のジフテリア症例
しかしながら1901年、アメリカ、ミズーリ州のセントルイスの抗体を接種された子供11人のうち10人が、汚染されたジフテリア抗毒素で死亡するという事例が発生しました。
当時ジフテリアの免疫抗体は馬の抗毒素を元に作ったものだったのですが、元になった馬を経由して破傷風に感染したとされています。元になった馬が破傷風で死亡したことから明らかになりました。
アメリカではニュージャージー州プリンストンで1904年1月7日、ルース・クリーブランドという女の子が12歳の若さジフテリア菌で命を落としました。彼女はグロバー・クリーブランド前大統領の娘だったことから大きく報道されたようです。
完璧とは言えないジフテリア菌への免疫、まだまだ研究は続きます。
1910年から1911年の間に、ハンガリーの小児科学者ベーラ・シックは、予めジフテリア菌も持っているか持っていないかを判断するというテストを開発します。彼の名前から今でも「シックテスト」と呼ばれています。
これは当時はワクチン剤が限られていたこと、また安全性がまだ低い状態だったことから、ジフテリアにさらされていない子供に接種されることが好ましい、という考えから始まったものでした。
しかしここでまたジフテリアワクチンでの事故が発生。
1919年にアメリカ、テキサス州ダラスでワクチン接種を受けた10人の子供が死亡、60人が重病になるというものでした。ここで気になるのはそのワクチンがニューヨーク州の保健局の試験に合格したものだったということです。
ワクチンを開発した製薬会社はすべてのケースに損害賠償を支払ったということです。
研究は進み次の10年で安全性の高いワクチンが開発されて、1924年には報告される死亡者数が大幅に減少し始めます。
1926年、イギリスの免疫学者アレクサンダー・グレニーは、ジフテリアトキソイド(ワクチン接種に使用される毒素の改変版)をアルミニウム塩で処理することにより、その有効性を高めました。
1939年には、スコットランドのノラ・ワティ社会医学博士(医学にはいろんな分野があるからか肩書きも同じ数の種類があるものですね)がグラスゴー全体に免疫クリニックを設置ち、市内の感染症を事実上根絶したと言われています。すばらしい!
世界第二次大戦中のジフテリア症例
一方、香港では1942年6月から1943年2月の間、当時の大日本帝国陸軍が抗ジフテリア血清の供給をしなかったために、シャムシュイポー兵舎で714人のジフテリア感染、その内112人の死亡が記録されています。
※シャムシュイポー兵舎とは日本軍が捕虜収容所として使用していた施設
1943年、ジフテリアの発生は戦争と付随してヨーロッパに大混乱を招き当時は100万件を超える感染から5万人以上の死亡がジフテリアが原因だったようです。
日本では1948年に「京都・島根ジフテリア予防接種事件」というのもがあります。これにはGHQの司令が絡んでいるようで、死亡者は84名副作用からの体の異常を患った数は1000人以上いたと言われています。
疫病の感染症が一定の時期に同じ地域で急に発生することをアウトブレイクといいますが、有効なワクチンが開発されても流行する時は流行するもので、世界のあちこちでジフテリアは驚異を広げます。
1975年にはアメリカのワシントン州シアトルで皮膚ジフテリアの発生が報告され、1994年にはロシアでは39,703件のジフテリア症例が発生したようです。
日本では幸いなことに?最後にジフテリア感染の記録があるのは1999年で、それ以降は報告はないとこと。それでも懸念されているのは日本にジフテリアに携わったことのある医者の数で、もし感染が発見された場合の早期治療に遅れをとるのではないかということです。
2000年代のジフテリア症例
スペインのバルゼロナでは2015年6月、ヴァルデブロンという大学病院でジフテリアの症例が診断されました。亡くなった6歳の子供は、親がワクチン接種に反対したためワクチン接種を受けていなかったとのこと。スペインでは1998年以降初めてのジフテリアの感染報告だったのでとても大きなニュースになったようです。
ごく最近では2017年11月と12月に、インドネシアでジフテリアの発生が発生して、600を超える症例が発見されて38人が死亡したとの記録。一番新しい報告では2019年11月、ギリシャのアテネで8歳の少年がジフテリアで亡くなったようです。
参照元https://www.niid.go.jp/niid/ja/kansennohanashi/411-diphteria-intro.html
https://en.wikipedia.org/wiki/Diphtheria