残酷!?信長って比叡山焼き討ちで女子供も殺害したってホントなの!?
比叡山延暦寺といえば織田信長、焼き討ち、を真っ先に想像してしまう私。
ところで織田信長はなぜ比叡山延暦寺を焼き討ちにしたんでしょうね。
焼き討ちって、まぁ攻撃の方法ですけど、とりあえず、一人ひとりなんて、ちょろちょろした攻撃じゃ日が暮れる、
寺も人も構うものか、すべて、全部燃やしてしまえぇぇぇぇぇ、って感じの攻撃です。
これ、武士道に反しませんか?
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とりあえず、私の理解している武士道だと、”ひっ、ひっ、ひきょうだろぉぉ お前” とツッコミを入れたくなります。
信長さん、なんでそんなことしたんでしょうね。ちっちゃくないですか?
(すみません、思いっきり批判的です。)
でも、ここには日本史好きにはたまらないミステリーが隠されているんです。
そもそも織田信長とはどんな人物だったのか。
群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)の戦国時代に、疾風迅雷(しっぷうじんらい)の快進撃を続けて、瞬く間に全国統一した戦国の武将。
武将は今の21世紀の時代でいうと、”官僚”のことを指すようですね。
官僚は国家公務員で法律を実行する人のことですね。
なので実は織田信長自身が戦場に立って、バッタバッタと誰彼構わずぶった切ってたわけじゃなくて、
あっちを攻めろっ、アイツは気に食わんぶった切れ、あいつは俺の統治体制にとって脅威だ、やられる前にやってしまおう、
などと上から命令を下す人だったと思われます。
群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)というのは、血気盛んな武士達?男たち(?!)が権力争いをしている、という意味です。
しかし統一の矢先に、腹心の明智光秀の謀反によって本能寺の変で攻められ、もうダメだと思ったのか自刃(じじん)したと言われていますね。
自刃とはいわゆる自殺のことです。
でもその遺体は燃え盛る本能寺と共に消えてしまっているなど、その最後は実は明らかになっていないみたいです。
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謎の多い織田信長は歴史好きの中でもファンの多い武将の一人
この織田信長が生まれたのは室町幕府が治めていた時代です。
武士の世を作った鎌倉幕府を倒した公家や皇族による幕府が形成した社会です。
といっても武装した公家や皇族達だったので、武家社会ではあったんですけど。
室町幕府は跡目争いなどで、結構もめていました。
社会では、疫病や天災が多発し、強盗などの事件も頻発して、かなり荒れていました。
本当はそんな時、政治が国民を救うんですけどね。
次の天皇は誰だなんてことで争っている幕府なものだから、皆あきれて信用しなくなっていました。
信長の生まれた時代は、腐りきった幕府の政治家達が、困っている世の人を救わずに跡目のことで争っていたわけですから、どうしようもないわけです。
もちろん信長だけじゃなく、この時代の戦国武将達は、たいていがこの状況を知り得ていたでしょう。
結果としてその荒廃した社会を形成し直すため、多くの戦国武将が天下統一を目論むことになり、その一人として織田信長が現れます。
武将達にしてみたら「室町幕府の将軍なんてダメな奴らばかりだ」位に思っていたかもしれませんね。
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話を比叡山延暦寺に戻すと、このお寺にはその室町幕府の足利義昭が関係してきます。
この足利義昭という人は、室町幕府15代の最後の将軍です。
世の中を荒廃させた室町幕府の将軍?と思うでしょうけど、義昭としては室町幕府を再興させたいわけです。
室町幕府再興を目論み、朝倉家などの武将の力を頼っていたのですが、その行動が織田信長の怒りを買います。
比叡山焼き討ちと明智光秀
ここで織田信長の自刃に関わる明智光秀についても、少し触れておきましょう。
明智光秀は織田信長の腹心となる以前は、朝倉家の家臣として使えていましたが、頭脳明晰だった光秀はその高い能力を買われ、信長の下で働くことになります。
朝倉家を頼っていた足利義昭と織田信長を引き合わせたのも明智光秀と言われています。
その後、織田信長と朝倉家で戦が始まり、比叡山は足利側についていました。
比叡山延暦寺には高僧がたくさんいましたが、室町幕府の時代には幕府の恩恵で懐を温めた高僧が沢山いましたから、足利側だったのかもしれませんね。
織田信長としては、比叡山延暦寺は宗教というより、財力のある一武将が集まる場所という認識だったと思われます。
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光秀については、信長の家臣として延暦寺焼き討ちの準備をしたという説と、最後まで信長説得に当たったという説があります。
いずれにしても光秀は延暦寺焼き討ちに関係があったことは確かなようです。
さてこの延暦寺焼き討ち、一説には女や子供も一切遠慮せず焼き討ちしたという話があります。
でも本当はどうだったのか。
実は延暦寺の僧侶の一部は、暴徒化して荒れていたという説があるのです。
暴徒化した僧侶は髪を生やし、武装して侍のようにふるまっていたと言われています。
彼らは女をさらったり、強盗まがいのことをして財産を強奪するなど、無秩序でとても僧侶のようではなかったとも言われています。
延暦寺にはこうした武装した僧侶のために、遊女(ゆうじょ)の住みかもあったといわれています。
延暦寺焼き討ちが始まったとき、最初に逃げたのはこの遊女や髪を生やした僧侶たちだったそうです。
信長はこうしたものが社会を荒廃させた要因であると、彼らを捕えて処刑したといわれています。
なので延暦寺焼き討ちで女子供も処刑したという説があるのです。
これらはどれも言い伝えであり、本当のところはわかりません。
織田信長について残されている文献で、彼のやってきたことですとか、彼の性格を読み解き、分析して、この残虐性を信じるかどうかは個人の判断によるかもしれませんね。
ただしこの延暦寺のあった比叡山やその山麓にある坂本町の話では、焼き討ち自体難しい地形であり、誇張された伝聞ではないかと言われてもいます。
こうして焼き討ちされたといわれる比叡山延暦寺ですが、その山の麓にある坂本城の城主になったのが明智光秀です。
でも、ここまで話したら「何故光秀は信長を殺したの?」「延暦寺焼き討ちに加担して、その後の再建に家臣として力注いだんでしょ?」と思われませんか?
信長の傍若無人ぶりに光秀が反逆したと言われていますが、でも何だか腑に落ちません。
そう考えると比叡山延暦寺には、織田信長と明智光秀にまつわるミステリーが多く隠されていると言えるのです。
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