遠慮はし過ぎると自分にも相手にも居心地の悪い雰囲気をつくる
マナーの一環として教育される「遠慮する子供」
私は子供が「遠慮する」のは、家庭でよく教育されている証拠だと思います。
私は日本以外のことは分かりませんが、日本では「遠慮する」という行為は美徳とされていて、それを子供の頃から各家庭によって子供に刷り込むことは、決して悪いものではなく、むしろ良いことだと思うんです。
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もし子供が、自分が欲しいものが目の前にあった時、いつも本音で「欲しい、欲しい」と繰り返したり、無遠慮に振舞えば、それは「行儀の悪い子」とよばれたり、もしくは「しつけがなっていない子供」という風に思われてしまうのが常です。
「遠慮する子供」というのは元々の本人の性格ではなく、日本におけるマナーの一環として遠慮をしているに過ぎず、子供本人は内心ではもっと自由で無遠慮に振舞いたいと考えている場合がほとんどなのです。
「遠慮する子供」から「自己主張する子供」へ
かつての日本が、慎み深く「遠慮する」文化によって社会を作って繁栄してきたというのも事実で、それがよかったのかもしれません。
でも、欧米というグローバルスタンダードの波にのまれ、自己主張しないと何も通らない西欧型の社会では、それがかえって損になることも確かですよね。
現に、日本の優秀な人たちが外国人と交渉しても、日本の主張がほとんど通らないのは日本人が子供の頃から「遠慮深い」という一種のしつけをされていることが何らかの影響を及ぼしているのでしょう。
日本も、「子供の頃から他人の気持ちを汲んで遠慮する人間」を作るという教育を改めたほうがいいのかもしれません。
いずれにせよ、近い将来日本も「遠慮する」という文化から「自己主張する」という文化にパラダイムシフトすることは明らかです。
(パラダイムシフトとは”当然とされていた価値観が変化する”ことを言います)
むしろすでに始まっているからこそ「遠慮する子どもが心配」という人が現れているのかもしれませんね。
「遠慮」は美徳ですが、し過ぎると自分にも相手にも居心地の悪い雰囲気をつくるのも確か。まずは大人の私達がきちんと理解して、子供に教えるのはその後ですよね。
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「我慢」は日本の美徳?
多くの人は子供の頃、親から「それくらい我慢しなさい」と言われて育ってきた人も多いのではないでしょうか。
日本では「我慢する」といことは美徳のようにとらえられている節があると感じるのは私だけではないと思います。
日本で生きていくためには、人にあわせたり、時には遠慮したり我慢したりすることができないと生きづらい社会かもしれません。
でも私は「我慢」という文化があるからこそ、日本はこれだけ経済発展を遂げることができたのではないかと考えます。
バブルが弾けるまで日本では「会社の為に働く」「会社を大きくする」という意識が会社員にはあったようにですが、今は働き方が「お金のため」「自分のキャリアステップ」という考えに変わりつつありますね。
最近では「サービス残業だ」などといわれて、会社員がボランティアで仕事をすることに不満を持ってる人がほとんど。
サービス残業を理不尽なものと認識しながらも、あえて我慢することによって会社や社会を支えるためにやってきたのだと思います。
統計では企業した会社が10年以上存在するのは全体の1割だそうです。
9割の会社は倒産したり畳んだり、大きな会社に合併されたりする
そのボランティアは、自主的に率先してやっているのではなく、もちろん社会の同調圧力だったり、なにか別なものだったりしますが、日本は我慢と遠慮、それに同調圧力によってここまで大きくなった国です。
同調圧力なんていうと重苦しく聞こえますけど、実際そうだと思うんですよね。
個人主義の考えが謳われていますが、共存主義(ちょっと同調圧力)この2つの考えをバランス良く取り入れることで日本はこれからも発展していける私は強く感じています。