子供の遠慮と自己主張のバランスって難しい 大人になっても遠慮するクセがしまう前に考えたいことに

 

遠慮する子供の良い面と悪い面

遠慮する子供は良いのか悪いのかと考えた時、私は良い面と悪い面があると思っています。

まず、遠慮することの良い面としては、他の子供の気持ちを理解するのに役立つと思います。

 

反対に、悪い面は何でしょうか。

 

遠慮することの悪い面は、他の子供にも「遠慮するのを強要する」ことだと思います。「自分が遠慮をしているんだから、あなたも遠慮しなさいよ」みたいな。

 

それでは、世の中上手くいきません。

 

ある意味、子供が自分が損をしてもなお、遠慮をし始めたとすれば大人に近づいている証拠でしょう。

 

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「遠慮する子供」なぜ? いつから?

 

遠慮をすることを子供は最初から覚えていたのでしょうか。

 

私の考えでは、子供が遠慮をするようになるのは、親を見て遠慮をするようになるからだと思います。

 

「日本は和を大切にして、人に迷惑をかけないように」と学校で習ってきました。遠慮することには、その教え方が根本にあるのかもしれません。

 

良い言い方をすれば、遠慮することには協調性があると言えますが、逆を言えば「自己主張」がないとも言えます。

 

どんな時に自己主張は必要か

 

自己主張があった方がいいのかどうかも、人それぞれ違うと思います。

 

私の意見では、集団でやっていくためには、ある程度の“和”が必要なのは当然だと思います。

 

一方、会社となると、世界で真の一流になるためには、自己主張を持つ人間が何かをたった一人で決めて実行させる勇気が必要です。

 

つまり、自分が集団の中で上手くやっていけないと思ったら、もっと遠慮をした方がいい部分があるでしょう。でも、一向に会議が進まないような会社にははっきりと自己主張を持った人の力が
必要です。

 

子供の場合は学校ではもちろん集団なので自己主張ばかりをするのは好まれないけど、個人で質問されば場合ははっきりと自分の意見を主張する能力は身につけるべきだと思います。

 

「遠慮」と「自己主張」のバランス

 

結局のところ、遠慮することと自己主張することのバランスが求められているような気がします。

 

子供が遠慮をするのは、親のマネをしているだけかもしれませんが、その子が大人になった時に初めて、それが後の生活で良かったかわかるのではないでしょうか。

 

私の結論としては、遠慮することが、良いことなのか悪いことなのか、それは一概には言えないということです。遠慮することと、自己主張することのバランスが大切であると考えます。

 

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日本発「我慢は美徳」

 

「我慢は美徳」という言葉を1度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。

 

「我慢は美徳」という考え方は、日本特有の考え方で、海外では我慢することを美徳だなんて考える発想すらなく、外国人は日本人の我慢強さに度々驚かされることもあるようです。

 

ですから、この言葉が生まれたのは間違いなく日本ということになるでしょう。
また、「最近の若者は我慢が足りない」と言われてしまうことも少なくありません。

 

このような発言をする人が多いのはやはり、昭和の真ん中を生きてきた世代のようです。
ゆえに「我慢は美徳」という言葉は、昭和よりも前からあったのではないかと考えられます。

 

「我慢」と「遠慮」は似ているようで違う

 

我慢した結果、不満足としか思えないのであれば、我慢以外の方法を考えてみた方が良いのではないでしょうか。

 

「我慢」と「遠慮」は似ているように思うかもしれませんが、その本質は全く違います。

 

我慢とは、辛い状況であろうと耐え忍ぶこと。辛いことを辛抱することを表す言葉です。
遠慮とは、状況や事情によって取りやめる判断したり、控えめな様を表す言葉です。

 

この2つの言葉はこのように使うことができます。

・お金がないので、お腹が減っていたが我慢した。
・食事の誘いがあったが、遠慮して断った。

 

「我慢」の場合は、不満足で終わっている印象があります。

しかし「遠慮」の場合は、自分の意思が働いているので、結果として納得していると
解釈されます。

 

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我慢は「美徳」か「後悔の種」か

 

そもそも、この言葉は価値観を表す言葉です。

 

我慢する事は、清く美しいことだという考え方であり、その価値観は昭和以前から、親から子へと受け継がれてきたのではないでしょうか。

 

しかし、最近は日本でも「我慢は美徳ではない」と考える人が増えてきてる気がします。
私もその中の1人です。

 

我慢することで、自分自身が成長したり、周囲を助けることができたりと、良い結果が生まれることももちろんたくさんあります。

 

それでも私は、「我慢は美徳ではない」と考えます。

 

我慢を美徳と考えて、自分が納得していないにもかかわらず自分の心に嘘つき、無理をして良い行いをしたとしたら、最後に残るのは後悔の念だと思うからです。

 

もし、我慢を自分が許容できる、あるいは納得して行うのであれば、心は最終的に満たされるはずです。でも、それは美徳とは違うと思います。

 

我慢には意味を持たせることが大事

 

生きていれば、やむを得ず我慢しなくてはいけない状況に陥ることもあります。

 

しかし、そのような状況ではない場合は、無理に美徳にとらわれて自分の意思を我慢することに、何の意味もないように思えます。

Posted by MIC