「遠慮するクセ」が「我慢するクセ」に
私は遠慮する子どもでした。
なので親や教師には好かれました。好かれてたと思います(笑)たぶん。
今は遠慮する大人です。でも正直言うとやっぱり損な性格だな、と思うことは多いです。
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「遠慮する」するというのは「断る」「辞退する」とかいろいろ意味があるのですが性質的な意味で言うと「先のことを考えて相手に対して言葉や行動を慎み控えること。」らしく、
いい意味で、持ち合わせていていい人の特質ですよね。
でも相手や集団(会社)のことを考えるあまり遠慮して「自分を犠牲」にしてる感覚を持ってしまうことも多々あります。
「じゃ遠慮しないで言いたいこと言えばいい、やりたいことやればいいじゃん」
って言われるのがオチなんですが、「遠慮する」ことがもう「人格」のレベルに組み込まれていてなかなかパッと「遠慮しない」ことが出来ない。
かなり矛盾なんですが、「遠慮する」のはいい事だと思ってる一方で遠慮して損した気分になることがしょっちゅう。。。
遠慮するクセが我慢するクセに
「遠慮」することと「我慢」することは厳密には同じではないかもしれまんが、性質的には隣り合わせだと思うんです。
私には子供の頃から「遠慮するクセ」がついてしまって、それを通り越して「我慢するクセ」にまで発展しちゃったのかなぁと思う時があります。
遠慮と我慢の区別が出来なくなっちゃってる。
私には姉が1人、兄が2人いて私は末っ子。
明らかに家計が苦しい家庭でした。
(今でも思うんですけど何で家計苦しいのにさらに子供作るんですかね。)
私の「遠慮するクセ」は間違いなくこの家庭環境から出来上がったものだと思ってます。
末っ子なので姉兄のお下がりを使うことが多かったです。たぶん私はあまり気にしてなかったんですけど、
ある日運動会やら何かのイベントで水玉模様の柄のタオルを用意するようにと言われました。
毎年のイベントなのでもちろんタンスの奥から引っ張り出してきた「お下がり」。
その水玉模様のタオル、上の姉兄で使い古されてるので色があせてて、しかも角っこがホツレてるようなやつでした。
で、ある男の子にからかわれたんです。
「おまえのタオルぼろぼろ、貧乏だから新しいの買えないんだろぉ⤴ はは~ん」って
うわっすごい、今でもはっきり覚えてる自分にびつくり(笑)
間違いなくこう言われたんです。
で、たぶん小学校3年とか4年だったんですけど、ものすっごい恥ずかしさを覚えたんです。泣くとか怒るとか、そんなことはしなかったですけどね。
やたら小さなことで「人をからかう」子っているじゃないですか。その男の子は幼稚園も一緒にいったいわゆる幼馴染み。まぁいいとして。
からかわれて胸くそ悪かったんですけど、父親にも母親にも「新しいの買って」ってお願いする発想すら私には思い浮かばなくてちょっと惨めな気持ちでそのイベントの練習期間と本番を、楽しむことなくやり通したんです。
たしか本番にわざと遅刻して行ったかもしれません(笑)小学生のくせに(笑)
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家にお金が無いこと知ってたのでとにかくお金を使うようなお願いは絶対にしませんでした。小さなお菓子とかでもです。
たまにデパートとか言って100円くらいで上下左右に動くマシーンあるじゃないですか、車とか飛行機の形して子供がまるで操縦してるかのような体験が出来るやつ。
あれ2つ上の兄が好きでよく乗ってたんですけど、私は隣に座るだけでコインを入れてとお願いすることはありませんでした。兄は絶対動かしてましたけど。
強烈に残ってるのはこんな感じの記憶なんですけど、とりあえず親に「お願い」したり「せがむ」ってことなんて私には出来なかったんです。今でもそうですね。
これを書いてるってことは本当は「そうしたかったけど、しなかった」んだと思います。
まぁ過去は消せませんし、今はもう大人なので何一つ「お願い」することなんてないんですけどね。
でも、自分ではいろんな事に今でも「遠慮しすぎ」だと思うんです。先を考えすぎて、相手のことを考え過ぎて、「勝手に遠慮しすぎ」みたいな(笑)
この「遠慮しすぎ」は「我慢」と隣り合わせで、いつの間にか両方とりあえずする「クセ」になっちゃってるんですよね。
たまに「あぁ損な性格」って思います。
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遠慮する人は思慮深い?遠慮力は必要
でも、おかげさまでこういう遠慮深い性格によって、周りから「思慮深い」と評価を受ける事が多いです。
実際、仕事の会議などの場面で私が緩衝材(かんしょうざい)のように周りの空気を読んで、的確な発言をすればその会議をしっかりと向かうべき方向へ持っていくことができます。と思ってます。
そして、社会の中には「遠慮力」のある人も必要だとは感じます。
「遠慮力」は、行き過ぎると自分の気持ちを過剰に押さえてしまい、ひどくなるとストレスを溜めこんだり、精神的な疾患にもつながりかねませんし。
幼い子供がそうなることなんて誰も望みませんよね。
なので小学生以下の子供がいる人にはある程度の年代に達するまでは遠慮をさせず、
「ダメでもとりあえず自分の希望を伝える」
「自分の気持ちに素直になる」
ことを素養として教えてあげて欲しいと思っています。
スキルとしての「遠慮力」を身につけるのは中学生に入ってからでも大丈夫だと思うんです。
我慢は美徳?
遠慮と我慢について考えていて、ふとこの言葉っていつ頃から言われているのか気になったんです。
調べてみると聖徳太子のいる大昔から言われていたようです。
たしかに「我慢」は良い時もあります。もしみんなが我慢しなくなってしまったらムチャクチャな世界になってしまうでしょう。
ただ、我慢のしすぎで体を壊したり、本当の自分が出せない環境だとしたらそれは辛いことだと思います。
「我慢」と「遠慮」は、よく似ているようで実際は全く違う言葉です。
「我慢」というのは、したい事があるのに本当の気持ちを押さえつけること。
つまり自分を抑えるという意味合いだと思います。
「遠慮」は、本当の気持ちを押さえつけるまでにはならないにせよ、あくまでも一歩引いて、物事を進めたいという意思の表れかな?と思います。
個人的に最近では「あまり我慢をするのもよくないかな?」と思ったりしています。
自分の掲げたルールであっても、我慢できないことがあれば我慢することもないかな、ゆるく生きてもいいのかな、と感じます。
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必要なのは我慢の質
反対に、他人や社会に対する態度に関しては、ある程度の我慢をしていかないとうまくやっていけないと思います。
「あいつのこと嫌いだから、仕事したくなーい!」なんていうのは通用しませんよね。嫌いな相手でも我慢して、うまくやっていかなければいけません。
人間が生きていく上で、我慢はどうしても必要なことですし、また我慢すること自体
悪いことばかりではなく、人を成長させるものでもあると感じます。
実際、私が我慢しない人間だったら、今頃家族や友達は離れてしまって私はひとりぼっちだったと思います。
つまり、自分に対してはあまり我慢せず、人や社会に対してはある程度我慢するというのが私のポリシーです。